御徳用遊女 大売出し(吉原)

  • 江戸後期の吉原は火の車?
    • ◇吉原遊女と吉原芸者について

      吉原と聞いて、遊女・花魁を連想される方が多いかと思いますが、吉原には遊女と芸者が存在し、その役割は分けられていました。

      大別すると、「色を売る遊女」と「芸を売る芸者」がおり、花魁を招くときは宴を催すのが慣例であったため、 その場を盛り上げるための芸事に精通したのが芸者という存在でした。

      ※吉原芸者については、以下の記事でも取り上げていますので、よろしければ参考にお願いいたします。

      花柳界の歴史(江戸時代-幕末)
      なぜなに花柳界(芸者と遊女の違い)
    • 吉原と深川の関係性
    •  吉原の主役はなんといっても遊女です。その遊女達の最高位が花魁と呼ばれる存在となります。 花魁と関係を持つには、まず相応の身分であることが前提条件としてあり、武士や豪商などでないと花魁を宴の席に招くことはできませんでした。 さらに一度呼ぶには現在の貨幣価値で100万円以上の金額が必要で、関係を交わすには最低3回は会いに行かねばならないルールまであったそうです。 金額に多少の差があれど吉原の下級遊女であっても相応の金銭が必要となるのが、吉原という土地での遊びだったのです。

       一方、江戸の岡場所(非公認の売春街)、深川はどうだったのでしょうか? 江戸時代中期以降、深川に流れる芸者が多くいました。 その頃、深川は吉原に匹敵するほどの大きな売春街に成長しており、深川芸者の存在は一つのブランドにもなっていました。

       ここでポイントとなるのが、吉原は幕府公認で色を売る商売が認められた土地であることに対して、 深川はそれが認められていない土地であるということです。深川はあくまで、 芸者が宴会の席でお客様をおもてなしする花街としての活動が認められていたのです。 しかし芸者の中には、お客様と関係を持つ方も少なくありませんでした。これが深川を売春街として有名にした要因となります。

       吉原で遊女を利用するよりも、深川で芸者を呼ぶ方が遥かに安く済むので人気が出ました。 「朝まで宴会している」という名目で芸者を利用すれば、そのまま密売春に突入という流れがあったそうです。 加えて、格式ばった吉原や、澄ました遊女と遊ぶよりも、砕けた明るさのある深川芸者の方が魅力的に感じる男性も多かったことや、 交通の便が良かったことも深川の発展に繋がりました。

       吉原にとって深川の密売春は面白くありませんので、度々奉行所にタレこみを行うことで対策をしました。 その結果、深川の多くの置屋が廃業に追い込まれては、新しい見世(店)が出来たりと、 吉原深川間でのイタチゴッコが江戸時代ずっと繰り返え行われたのです。

       時代の流れも吉原にとって逆風となります。江戸時代後期の幕府は不景気だったのです。 色を売る商売が景気に左右されるのは今と変わりません。景気の良かった江戸時代前期の華やかさは吉原からは消えさり、 それでも過去の伝統や格式感(ついでに値段の高さ)を残した結果、段々と客足は途絶えたのです。 お客様の流れた先は深川を筆頭とする江戸中の岡場所だったのです。
    • 色を売る芸者の存在
    •  芸者は遊女ではないので、色を売ることは違反となり、処罰の対象となります。 しかし深川では酔ったフリをして、お客様と泊ることはよくあることでした。宴会で意中の男性に狙いを定め、 「私、眠くなっちゃった、帰れないわ」的な演技は、この頃には存在していたのだと思われます。 尚、酔ったフリをしてお客様を誘う芸者のことを「突っ伏し芸者」と呼んだそうです。

       芸者の名誉のために申し上げますが、全ての芸者が色を売っていたわけではありません。 この時代の深川では比較的多かったということになります。芸者の本懐は「芸は売っても身体は売らない」という点にあるので、 この前提を破った芸者は仲間内から「転び芸者」と陰口を叩かれることになります。生きるために芸事に精進する芸者もいれば、 生きるために転び芸者の道を歩む芸者もいたということです。数千人も芸者がいれば、 様々な決断が存在することは当然といえば当然だと納得ができます。
    • ◇吉原が起死回生の一手を放つが、、、、
    • 客足が遠のき、さらに長い不況の煽りを受けた吉原が、起死回生の営業攻勢をかけます。 それは「遊女大売出し」と書かれたチラシを江戸中にばら撒きだしたのです。1851年の春のことです。

      チラシには「御徳用遊女」というキャッチコピーが使われ、まるで追い込まれた小売店がヤケクソ気味の低価格戦略・広告戦略に 打って出るような様子が感じられます。

      どの程度の割引や特典があったかの内容については存じ上げませんが、このチラシは幕府より差し押さえられ、 宣伝をした遊郭は10日間の営業停止処分となります。今でいう風的法違反にあたる処罰です。 この時代、色を売る商売の積極的な宣伝活動は風紀上の理由で禁止とされていたための処分となります。

      ※画像はパロディ化したイメージです。
    • あとがき 上記の内容を現在の花柳界に置き換えて考えてみた
    •  深川に流れたお客様の声は以下の3点でした、

      1 不況な時代だし、同じサービス内容なら、値段が安い深川の方が良いよね。
      2 格式が高い吉原遊女よりも、距離感の近い接客をしてくれる深川芸者の方が好みかな。
      3 吉原に行くよりも、深川の方が交通の便がいいね。

       これを「吉原を花柳界」に置き換え、「深川を池袋の繁華街」に置き換えると、どうなるのか?

      1 不況な時代だし、接客される(色ではない)なら、花柳界よりも池袋の繁華街の方が安く済むよね。
      2 花柳界は格式が高そうで遊び方も分からない、池袋のおねーさんの方が距離感が近いから好き。
      3 ターミナル駅の池袋の方が繁華街としては遊びやすいかな。タクシー使わずに店まで行けるし。

       ※ほとんどの花街は駅からちょっと距離があり、タクシーを利用するお客様が多い。



       なにやら江戸時代に吉原に起こったことが、現在の花柳界にも起こりそうな文章になりましたね。 現実問題として、料亭の数、芸者衆の数は全国的に減少傾向です。花柳界が再興できるような特効薬的な手段は存在しないのが現状です。 個々の花街の努力で現状維持か微増というのがやっとな印象があります。

       吉原というビッグネームでさえ、不況で廃れ、異業種にお客様を取られています。 「伝統や格式は重んじるべきではあるが、固持するべきものではない」というのが私の持論となります。 近年の花柳界での再興成功例を見ると、「従来の芸者の在り方に拘らない営業」が功を奏しているように感じられます。

       例えば、一昔前までは芸者の求人広告など存在しなかったそうですが、 今では当たり前のように見番や置屋のホームページに「芸者募集」の文字があります。 これは芸者数を増やしたいと願った某芸者が置屋の女将に掛け合って、求人広告を出させてもらったことが始まりだとされています。 結果としてこの花街は芸者数も客数も上昇したそうです。

       全ての伝統芸能、伝統工芸にあてはまる訳ではありませんが、何かしらの助成金や援助で延命しているものは少なくありません。 それらが存続することに異論はありませんが、芸者(花柳界)に関しては助成金や援助で延命するべきではないと私は考えています。 なぜなら芸者は自立した存在だからです。自らの芸で生計を立てられることが誇りであり、それが芸事の稽古に励むモチベーションとなり、 より良質な芸が披露できるようになって、お客様をもっと増やす。これが本来の芸者の姿だと考えています。 だからこそ、花柳界を再興させて、理想の状態に戻したいのです。

       席料や花代を安売りをしろとか、御徳用芸者のチラシをばら撒けと言っているわけではありません。 助成金や援助も、事業を拡大するために使う分には大賛成です。怖いのは事業を延命するためだけに予算を使っているというケースです。 これでは発展は望めません。

       まずは2020年のオリンピックまでに出来ることを考えるのが、再興を目指すための第一歩になると考えています。 催し物の告知や、インタビューに応じて頂ける花柳界関係者がいらっしゃいましたら、下記よりご連絡をお願いいたします。 微力ながら告知のお手伝いをさせて頂きます。

       めざせ2050年までに東京の芸者数3000名!