花柳界の歴史(明治時代-近代)

  • 江戸時代から300年以上の歴史を持ち、最盛期は昭和初期
  • 5.明治以降の花柳界

     明治になると、芸娼妓解放令が発布され人身売買が禁止されます。 芸者・遊女の年季奉公は禁止され、更に借金も棒引きされた為に芸者は晴れて自由な身となりました。


     この影響で芸者の存在がなくなった訳ではなく、貸座敷渡世規則・娼妓規則・芸妓規則が制定され、 芸者になりたい者は届出をして鑑札(営業許可証)を受けとれば、誰でも芸者になれるようになりました。 この規則の発布を期に、全国で新しい花街が生まれることになったのです。


     近代国家を目指す明治政府は、花柳界の秩序化(税収の管理など)を目的に、花街ごとの格付けを行います。 具体的には、花代と課税率を花街ごとに明確にしたのです。


    ◇明治初期の地域別の花代◇
    一等地 花代1円 新橋、柳橋
    二等地 花代80銭 日本橋、葭町、新富町、数寄屋橋
    三等地 花代50銭 烏森、吉原
    四等地 花代30銭 深川、神楽坂
    五等地 花代不明 赤坂、向島等


    ※花街別の課税率は不明。


    明治7年の警察巡査の初任給が月4円だったそうです。
    そう考えると当時の1円の価値は現在(2015年)の約4万円から5万円だと思われます。



    新橋芸者の誕生

     新橋という地名は明治初期から使われるようになり、金春芸者もこれ以降、新橋芸者と呼ばれるようになります。 新橋という土地柄、政府高官のお客様が多く、それは新橋の発展に繋がりました。


    •  新橋芸者の中からは新政府の高官の側室のみならず、本妻なる者も現れ、同じ一等地の柳橋との差別化が進みます。 当時の三井財閥の財界茶人が茶器や書画の類を披露する茶会を新橋の料理屋や待合で盛んに開催され、 お客様をもてなす新橋芸者に求めらる趣味教養は深まりました。 加えて、新橋花柳界は一流の家元や名人を師匠に迎え、新橋に籍のある芸者であれば三円の月謝で好きなだけ稽古を 受けてよいという制度を設けたことから、新橋芸者の芸は劇的に向上し、後に「芸の新橋」と賞される由縁の一つとなったのです。


       時代は流れ、日本経済の好況と、芸の向上により、新橋は全国屈指の花街となりました。 しかし、京都では明治初期の時点で、都おどりが大成功をおさめていたにも関わらず、東京には演劇場がありませんでした。 そのため、大正14年に新橋演舞場が建てられ、芸の稽古と発表の場としました。後の東をどりの開催に繋がります。
    •  【画像】新橋演舞場 ※wikipediaより



  • 赤坂花柳界の発展

    •  明治から昭和初期にかけて、赤坂花柳界も目覚ましい発展を遂げました。 明治の初期には五等地だった赤坂が、昭和の初期には二等地まで昇りつめたその背景には、 新政府の高官や政治家を受け入れた新橋と異なり、赤坂は軍人を受け入れて発展していったことがあります。 明治41年には文芸倶楽部の美人投票で全国一位になった名妓「萬龍」を輩出し、赤坂花柳界の名を全国に広めました。


      【画像】
      赤坂芸者 萬龍
      文芸倶楽部の美人投票で全国1位を受賞



  • 5.昭和の花柳界

     大正時代の第一次世界大戦から、昭和の第二次世界大戦前までの期間、景気の良い時代が続き、花柳界も大いに沸きましたが、 時代と共に多くの規制による締め付けもありました。
     昭和14年、警察庁より料理屋と待合の深夜24時以降の営業が禁止されることになり、料亭の売上や芸者の花代が減少。 その後、国民徴用令が実施され、多くの芸者は大日本国防婦人会の会員になることを義務付けられ、 これを期に芸者業を引退する方も多かったようです。尚、赤坂花柳界は軍人のお客様が主だったため、むしろ忙しくなったそうです。


     太平洋戦争中は料理屋で出される料理も、配給物資で賄われるために粗末なものとなり、昭和19年には決戦非常措置要綱に基づき、 花柳界の営業は強制停止となりました。芸者は工場での軍需品製造に従事することになります。


     しかし、食糧や金銭はあるところにはあったようで、深夜に隠れてお座敷が開かれていたとのことです。 これは東京に限らず、京都の花街でも同じだったようです。



    戦後の花柳界

     東京大空襲で浅草などの花街は大きな被害を被りました。敗戦後の焼け跡から、芸者業は復活します。 新たな顧客となったのが進駐軍で、数々の接待の場に芸者が呼ばれることになります。


     外国人が日本人女性を「ゲイシャ ゲイシャ」と呼ぶのは、この時の名残なのだそうですが、 実際に芸者とお座敷を共にできた軍関係者は少数で、アメリカ人に物をたかる一般女性が芸者を名乗り、色を売ったのが、 「ゲイシャ ゲイシャ」の由来のようです。そのため、欧米諸国で芸者と遊女が混同されるイメージを浸透させてしまうことに繋がったのです。


     余談ですが、当時のアメリカ人は、芸者のことを「ゲイシャ」というよりも「ギーシャ」と発音することの方が多かったようです。



    昭和後期から平成の花柳界

     景気の上昇と共に、花柳界は戦前に勝る繁盛を一時迎えます。しかしレジャーの多様化が進み、 三味線や踊り以外にも遊びの選択肢が増え、安価な遊興へのニーズが高まりました。接待の場も料亭ではなく、 バーやクラブが選ばれるように変化していきます。
     更に、労働基準法や、児童福祉法により、幼い頃から芸者を育てる事が不可能となり、18歳以上の者でないと芸者になれなくなりました。


     これらの影響などで、昭和から平成にかけて、全国規模で多くの花街が廃業することになります。 存続している花街でも芸者数が大幅に減り、現在に至ります。


     戦中、戦後の花柳界については、以下の書籍が大変参考になりました。空襲から避難する芸者の生の感想や、 レジャーの多様化に対して向島花柳界がどのように対応したのか等が記載されています。ご参考にお願いいたします。








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