花柳界の歴史(江戸時代-幕末)

  • 江戸時代から300年以上の歴史を持ち、最盛期は昭和初期
  • 1.芸者の始まりは新吉原の遊郭から

    ↓画像は江戸時代後期の吉原


     江戸時代、吉原では花魁(遊女)を迎える為には、太鼓持ちや芸者を呼び宴を催すのが習わしでした。
    遊女と芸者の役割は明確に分かれており、「色を売る遊女」と「芸を売る芸者」はまったく別の職種としての住み分けがされていたのです。


     当時芸者は「芸をする者」の意味であり、元々は男性が花や茶をたて三味線を弾いて芸を披露することで、 お座敷を盛り上げる役割を担っていました。いつからか女性が芸者をするようになり、それが主流となります。 男性の芸者は現代でも存在しますが、その数は少数となっています。

     それでは、実際女性の芸者が活躍しだしたのはいつ頃からなのでしょうか?




    • 2.先に誕生したのが深川芸者、幕府公認を得たのは吉原芸者

       東京(江戸)の芸者のルーツは深川芸者にあるとされていますが、実は幕府非公認の芸者でした。 1657年、明暦の大火と呼ばれる大火事が江戸で発生したことで、その後に火事を恐れ、多くの方が郊外の深川へ引越しを決めました (現在の東京都江東区 清澄白河駅周辺)。


       深川は近くに川が流れ、火事も少ないことから、寺院や武家屋敷が移築され、商人も多く移り住みました。 それに伴い料亭や幕府非公認の岡場所(私娼屋が集まった歓楽街)も多く生まれることになります。 この岡場所に集まった踊子たちが深川芸者のルーツとなります


       当時の芸者の役割は、歌手であり、タレントであり、ホステスでもありましたが、特に三味線の演奏者としての役割は重要だったそうです。 当時はカラオケ機器が存在しなかったので、場を盛り上げるための音楽が必要だったので演奏ができる者の存在は貴重でした。 そのため芸者にとって、芸の腕前は花代を稼げるかを左右する重要な要素であったのです。 そんな中、深川芸者から菊弥(きくや)という歌の名手が誕生します。江戸で有名となり、深川芸者の知名度は大きく高まりました。 しかし、、、、


  •  ある日、深川で私娼を兼ねていた踊子115名が検挙される事件がありました。 芸を売るのが芸者と言えど、幕府非公認の地で商売をする芸者(深川以外の岡場所含む)には色を売る女郎も存在したのです。 検挙された115名は吉原へと引き渡されることになったそうです。


     その頃、吉原は衰退の途をたどっており、一つの変革が起きます。 それは芸事に秀でた女性を、それに専念させ、色を売ることからから手を引かせるという取り組みでした。 この頃から、色を売る遊女と芸を売る芸者の住み分けが明確になり、色を売らない吉原芸者が誕生しました (幕府公認)。

    ※吉原芸者は、廓芸者(くるわげいしゃ)とも呼ばれていたそうです。


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  •  この時代の江戸には3種類の芸者が存在しました。
    1.吉原芸者 (幕府公認)
    2.深川芸者 (幕府非公認)
    3.町芸者  (幕府非公認)


     吉原芸者は幕府公認のため、公の場で「芸者」であると名乗れるが、深川芸者と町芸者はそれが出来ません。 しかし、吉原芸者は吉原内でしか活動ができないという制限があります。


     当時の江戸には町中に芸者がいて、本業との兼業をしながら芸者活動をしている方もいました。 例えば、三味線の師匠がお座敷に呼ばれるなどのケースです。厳密には深川芸者も町芸者に含まれるのですが、 深川芸者は一つのブランド価値を持ち、町芸者の中でも別格の存在でした。当時の深川が岡場所として栄えていたことと、 芸者としての技量によるものだと考えられます。




    3.見番の誕生


     遊女と芸者の職域を明確に分けるために生まれたのが「見番」です。 芸者1人1人の芸名が板に書かれ、見やすいように掲示されていたため「見板(けんばん)」→「見番(検番)」となったのです。


     見板の主な役割は、登録された芸者を監督し、出先からの注文に応じて指名された芸者を派遣することになります。 前述したように、当時の芸者の中には色を売る者もいたため、それを予防するための取決めも多く作られました。 例えば、芸者なのか遊女なのか一目で分かるように服装や髪形に関するルールを決めるなどです。 遊女は帯の結び目が前面(前帯)なのに対して、芸者は前帯をぐるりと背面に回して垂らした形にするという取決めも設けられました。 服装にルールができたことは、吉原芸者のブランド価値を高める結果となり、町芸者から羨望のまなざしを集めることに一役買いました。 何より幕府より唯一公認された芸者ということが、町芸者とは別格であると印象付けることになったのです。


    • 左の画像
      吉原芸者 おたつ
      帯の結び目が背面にある。

      右の画像
      吉原遊女 人物不明
      帯の結び目が前面にある。





  • 4.柳橋芸者 と 新橋芸者の誕生

    •  一世風靡した深川芸者でしたが、芸だけでなく色も売る女郎芸者が増えてきました。 そのため、岡場所の取締りが行われこととなります。深川はこの取締りにより廃業(後に復活)。 深川芸者の多くは柳橋へと移り、柳橋芸者となります。柳橋は船舶の要地で、有名な料理屋も多く栄えた場所でした。 柳橋芸者は、あっさりとして趣があり、媚びる事無かったそうです。なんとなく深川芸者に通じる部分があるように見えますね。 柳橋芸者は日本橋界隈の旦那衆からの支持を得ることに成功し、1999年まで柳橋花柳界は存続していました。


       幕末になると、米の値が急騰したのをきっかけに打ちこわしが江戸中で発生。その際に吉原は全焼します。 同時期、汐留川(新橋川)付近の船宿や料理茶屋を出先とする酌人が増え、 その中でも人気があったのが常磐津の女師匠をやられていた女性でした。 現在の銀座8丁目付近は、金春人道(こんぱるじんみち)という地名であったため、 いつしか彼女達のことを、金春芸者(こんぱるげいしゃ)と呼ぶようになります。 当時の幕府からも「酌取御免」というお墨付きも頂き、幕府公認の芸者にもなりました。 芸事に秀でた彼女達、金春芸者が、後の新橋芸者となるのです。


      画像は1900年代初頭の新橋の人気芸者 照葉




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